2009年 05月 10日
分担・交わり→傷 |
【連絡事項】
1.私のブログを見る後輩クリスチャン数名から、「よーこちゃんのブログを見ると、社会の厳しさが分かります」的なコメントを頂きました(笑)。 あの、私はかなり病んでる部類の人間になります。なので、私が重たい内容書いてるからと言って、将来・社会に対して悲観的にならないでね(愛情)☆
2.Small Groupを立ち上げました。毎月第2、第4土曜日にBible Studyと祈り会を行っています。本来の目的は帰国者クリスチャンのフォローなんだけど、それに限らず、興味のある方は声かけてねー★
3.ご覧の通り、リンクを整理いたしました。大丈夫だと思うけど・・・。リンク貼られちゃまずい人は教えてくださいな。
はい、本題です↓↓
「個人の能力には限界がある」
ということは、前からなんとな~く分かっていたこと。
自分の得意分野に限っては、広範囲のことが出来るし、吸収力もあると思う。
ところが、不得意分野や専門外のこととなると、そうはいかない。
己の非力さを知るし、効率も悪い。品質も低い。
でも、何かをする時に、自分の脳みそを使う以外にも方法があることに最近気付いた。
それは、
「他人の脳みそを使う」ということ。
先輩であったり、分野専門の人であったり、経験者であったり。
多くの方の脳みそを借りれば、あっという間に解決できたり、まったく違う見解や指摘が入って、
自分ひとりで抱え込んでいた時よりも、効率も良く、本当にびっくりするくらい良いものが出来上がるときがある。
仰々しく書いたけれども、
・協力する
・分担する
ことの素晴らしさを実感しているところ。
でも、この「協力する」ということは、主イエスのうちにも見られること。
クリスチャンが手本とすべきイエスが、福音を伝えることについて、
重荷を十二弟子に分担されたことは非常に興味深い。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」 (マタイ 10:1)
詳しくはこの本に書いてあるんだけど↓
ここから、「神様は人間は自分ひとりで事を完結すべきということを前提としていない」
ということが分かる。
イエスの姿から、クリスチャンは地上での生き方を学ぶ。
何かを依頼する時、相談する時、
そこには交わりが存在する。
持てる知識、把握していることをその人の前に出す。
私から出されたものを基に、その人がまた新たなものを作り出す。
あの5つのパンと2匹の魚を差し出した少年のように、
今、自分が持っているものを差し出す時、
神様はそれを何倍もの祝福、良き物にしてくださる。
感謝なことだ。
また、今まで分担できず、抱え込んでいた自分は何だったんだろう、
なぜ早く差し出さなかったんだろう、と思わされる。
その原因は、今まで受けてきた傷、また内に宿る罪のゆえではないか。
1つは、人に対する不安・トラウマ。
また、「自分のものだけにしたい」という欲もあるのだろう。
視点を今一度、少年に戻してみる。
食べ物もなく、皆が空腹という状況で、少年はその集団の中で、
自分しか持っていないかもしれない食糧を手にしていたのだ。
自分だったらどうするだろう??
こっそり食べて、満腹になることを望んでいたのではないか?
少年もお腹は空いていただろう。
しかし、彼は素直に食糧をイエスの前に差し出したのだ。
罪の赦しをこうと同時に、
罪の原因となった傷も探っていきたい。
そこには、必ず神様との交わりがあるのだ。
握っているものを差し出す時、
神様はそれを何倍もの祝福に変えてくださる。
それは、私だけでなく、私の回りにいる人々にも流れるのだ。
少年だけでなく、群集が満腹したように。
こうして、福音が述べ伝えられますように。
殺伐とした世の中で、人々が真理を掴むことが出来ますように。
主に祈り、歩みたい。
意見交換、相談。
つまり、自分の思い、考えを人に与えることで、さらに優れたアイディアが生まれたり、
逆に知識を得られるのは、面白いなぁ、と思うのです。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、おしつけ、揺すり入れ、あふれるまでにしてふところに入れてくるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」 (ルカ 6:38)
1.私のブログを見る後輩クリスチャン数名から、「よーこちゃんのブログを見ると、社会の厳しさが分かります」的なコメントを頂きました(笑)。 あの、私はかなり病んでる部類の人間になります。なので、私が重たい内容書いてるからと言って、将来・社会に対して悲観的にならないでね(愛情)☆
2.Small Groupを立ち上げました。毎月第2、第4土曜日にBible Studyと祈り会を行っています。本来の目的は帰国者クリスチャンのフォローなんだけど、それに限らず、興味のある方は声かけてねー★
3.ご覧の通り、リンクを整理いたしました。大丈夫だと思うけど・・・。リンク貼られちゃまずい人は教えてくださいな。
はい、本題です↓↓
「個人の能力には限界がある」
ということは、前からなんとな~く分かっていたこと。
自分の得意分野に限っては、広範囲のことが出来るし、吸収力もあると思う。
ところが、不得意分野や専門外のこととなると、そうはいかない。
己の非力さを知るし、効率も悪い。品質も低い。
でも、何かをする時に、自分の脳みそを使う以外にも方法があることに最近気付いた。
それは、
「他人の脳みそを使う」ということ。
先輩であったり、分野専門の人であったり、経験者であったり。
多くの方の脳みそを借りれば、あっという間に解決できたり、まったく違う見解や指摘が入って、
自分ひとりで抱え込んでいた時よりも、効率も良く、本当にびっくりするくらい良いものが出来上がるときがある。
仰々しく書いたけれども、
・協力する
・分担する
ことの素晴らしさを実感しているところ。
でも、この「協力する」ということは、主イエスのうちにも見られること。
クリスチャンが手本とすべきイエスが、福音を伝えることについて、
重荷を十二弟子に分担されたことは非常に興味深い。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」 (マタイ 10:1)
詳しくはこの本に書いてあるんだけど↓
ここから、「神様は人間は自分ひとりで事を完結すべきということを前提としていない」
ということが分かる。
イエスの姿から、クリスチャンは地上での生き方を学ぶ。
何かを依頼する時、相談する時、
そこには交わりが存在する。
持てる知識、把握していることをその人の前に出す。
私から出されたものを基に、その人がまた新たなものを作り出す。
あの5つのパンと2匹の魚を差し出した少年のように、
今、自分が持っているものを差し出す時、
神様はそれを何倍もの祝福、良き物にしてくださる。
感謝なことだ。
また、今まで分担できず、抱え込んでいた自分は何だったんだろう、
なぜ早く差し出さなかったんだろう、と思わされる。
その原因は、今まで受けてきた傷、また内に宿る罪のゆえではないか。
1つは、人に対する不安・トラウマ。
また、「自分のものだけにしたい」という欲もあるのだろう。
視点を今一度、少年に戻してみる。
食べ物もなく、皆が空腹という状況で、少年はその集団の中で、
自分しか持っていないかもしれない食糧を手にしていたのだ。
自分だったらどうするだろう??
こっそり食べて、満腹になることを望んでいたのではないか?
少年もお腹は空いていただろう。
しかし、彼は素直に食糧をイエスの前に差し出したのだ。
罪の赦しをこうと同時に、
罪の原因となった傷も探っていきたい。
そこには、必ず神様との交わりがあるのだ。
握っているものを差し出す時、
神様はそれを何倍もの祝福に変えてくださる。
それは、私だけでなく、私の回りにいる人々にも流れるのだ。
少年だけでなく、群集が満腹したように。
こうして、福音が述べ伝えられますように。
殺伐とした世の中で、人々が真理を掴むことが出来ますように。
主に祈り、歩みたい。
意見交換、相談。
つまり、自分の思い、考えを人に与えることで、さらに優れたアイディアが生まれたり、
逆に知識を得られるのは、面白いなぁ、と思うのです。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、おしつけ、揺すり入れ、あふれるまでにしてふところに入れてくるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」 (ルカ 6:38)
by witlord405
| 2009-05-10 01:53
| 思想