2009年 11月 15日
自律 |
自律(じりつ)
①自分で自分の行為を規制すること
②理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと
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自らを律する、と書く。
社会人生活を送る中で、思うこと、考えることはある。
人間に必要であり、また必要でありながらも、多くの人が得られていないのは、この”自律”ではないかと思う。
自律なんて言葉を持ち出したら、「真面目だねー」というコメントか、堅苦しいという評価を頂くのが近頃の風潮だろう。
でも、人間が健全に生活し、また組織を作り上げていくのに必要なのが自律だと感じる。
信頼関係を築き上げるのも、個々人に自律なくしてはありえないと思う。
感情に任せて言葉を相手に投げつけないように、つまりは相手のことを配慮して発言するのも自律だし、相手の利益を求めて行動するのも自律だ。
正しい道を選択するのも自律だし、誘惑に負けないように、そういった状況を避けるのも自律。
自律と正反対の行為は、それが正しいか悪いかの吟味や判断もなく、自らの欲求に任せて行動すること。
自分自身も感じるし、会うこともあるけど、本当にこの世の中は誘惑だらけ。
自分自身を律することができない弱さがある。
罪悪感を通り越して、もはや悪いことを糾弾することなく、正しいことを求めようと更生の動きがなくなっているのが今の世の中ではないか。
悪に対する感覚は麻痺。
将来に対する希望が奪われ、悪に身を委ねることをよしとする。
むしろ無力感の中で生かされることになる。
物質的に豊かになった日本が、悪循環に陥っているのはこれ。
何事にも縛られず、自由に生きるのが正しい!
自由に生きるのは、現代人の権利だ!
そういった主張も分かる。でも、本当に自由な人間なんてこの世の中にいるのだろうか。
自律は抜きにしても、規則や罰則がなければ、あっという間に欲望の奴隷となるのが、悲しいかな、人間の性質だ。
志を高くもった人間であれば、道徳観念に反する行動は起こさないにしても、そもそも、そのような生き方を選択せずに生きる場合、罪の奴隷となってしまう。あっという間に罪という主人がその人の人生を支配する。
浮気や姦淫の罪もこれに値する。
結婚しているにも関わらず、家庭の外で異性と関係を結ぶのは、疑いの余地なく背信行為だ。
一人の異性と信頼関係を結べない人間が、どうして会社で、部下・上司・同僚と信頼関係を構築できるのだろうか。
※御茶ノ水の町並みを見下ろす
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結論として、人間は真に自由なるなんてことはありえない。
必ず何らかの法則や規制に縛られる。
ただ、”誰に”従うかの自由はあるのだ。
従うと決心した主人によって、その人の人生が決まる。
クリスチャンの観点を付け加えるならば、自律という言葉にも限界があることに気付くだろう。
「理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと」
神へ委ねるとは、自ら道徳観念を構築できないと告白することから始まるだろう。
完全降伏、無条件降伏の姿勢から始まる。
神様への思いを確かにし、祈りのうちに告白するものでありたい。
①自分で自分の行為を規制すること
②理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと
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自らを律する、と書く。
社会人生活を送る中で、思うこと、考えることはある。
人間に必要であり、また必要でありながらも、多くの人が得られていないのは、この”自律”ではないかと思う。
自律なんて言葉を持ち出したら、「真面目だねー」というコメントか、堅苦しいという評価を頂くのが近頃の風潮だろう。
でも、人間が健全に生活し、また組織を作り上げていくのに必要なのが自律だと感じる。
信頼関係を築き上げるのも、個々人に自律なくしてはありえないと思う。
感情に任せて言葉を相手に投げつけないように、つまりは相手のことを配慮して発言するのも自律だし、相手の利益を求めて行動するのも自律だ。
正しい道を選択するのも自律だし、誘惑に負けないように、そういった状況を避けるのも自律。
自律と正反対の行為は、それが正しいか悪いかの吟味や判断もなく、自らの欲求に任せて行動すること。
自分自身も感じるし、会うこともあるけど、本当にこの世の中は誘惑だらけ。
自分自身を律することができない弱さがある。
罪悪感を通り越して、もはや悪いことを糾弾することなく、正しいことを求めようと更生の動きがなくなっているのが今の世の中ではないか。
悪に対する感覚は麻痺。
将来に対する希望が奪われ、悪に身を委ねることをよしとする。
むしろ無力感の中で生かされることになる。
物質的に豊かになった日本が、悪循環に陥っているのはこれ。
何事にも縛られず、自由に生きるのが正しい!
自由に生きるのは、現代人の権利だ!
そういった主張も分かる。でも、本当に自由な人間なんてこの世の中にいるのだろうか。
自律は抜きにしても、規則や罰則がなければ、あっという間に欲望の奴隷となるのが、悲しいかな、人間の性質だ。
志を高くもった人間であれば、道徳観念に反する行動は起こさないにしても、そもそも、そのような生き方を選択せずに生きる場合、罪の奴隷となってしまう。あっという間に罪という主人がその人の人生を支配する。
浮気や姦淫の罪もこれに値する。
結婚しているにも関わらず、家庭の外で異性と関係を結ぶのは、疑いの余地なく背信行為だ。
一人の異性と信頼関係を結べない人間が、どうして会社で、部下・上司・同僚と信頼関係を構築できるのだろうか。
※御茶ノ水の町並みを見下ろす
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結論として、人間は真に自由なるなんてことはありえない。
必ず何らかの法則や規制に縛られる。
ただ、”誰に”従うかの自由はあるのだ。
従うと決心した主人によって、その人の人生が決まる。
クリスチャンの観点を付け加えるならば、自律という言葉にも限界があることに気付くだろう。
「理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと」
神へ委ねるとは、自ら道徳観念を構築できないと告白することから始まるだろう。
完全降伏、無条件降伏の姿勢から始まる。
神様への思いを確かにし、祈りのうちに告白するものでありたい。
by witlord405
| 2009-11-15 11:22
| 思想