2007年 12月 17日
問題点 |
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」 (ピリピ2:3~4)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 (レビ記19:18)
毎週守ることが赦されている聖日礼拝。今週の頭も教会に集うことが出来た。
その中で語られたメッセージ。いたるところでグサグサきた(?)。
聖書箇所はピリピから。本当に多くのことを探られ、気付かされ、導かれる内容だった。
いろんな面から分かち合えるけど、今日はひとつだけ。
ピリピ2章を読んで、あーばっちり出来てるわ自分。と思う人はそうはいないと思う。
まぁ、私だけなのかもしれないけど、この御言葉は痛い。なぜ痛いのかというと、なかなか実行に移せないから。まさしく自分のことを言われてるような気がするから。
やっぱり見栄を張ってしまうし、人と比べてはあーだこーだ考えるし。
人と比べて、「私は~~が出来るわ。」とか、「私は~~について知っている。」と思うときほど愚かで無知なときはないと思うし、
逆に人と比べて、「私は~~だからダメなのよー。」と思うときほど、十字架の救いや神様の愛を理解してないときはないんだと思う。そこから目を反らしてる。
人間どうしても自分のことを最優先にしてしまうし、へりくだることはなかなか難しい。難しくしてるのは、頭でっかちなこの性格かもしれないけど。
で、このへりくだるという概念も日本人が考える「へりくだり」と、聖書的な意味での「へりくだり」は全く違うとS牧師はおっしゃってました。いわゆる日本人だと、自己卑下のほうに捉えてしまうんだな。
謙遜と自己卑下は性質が異なる。別物。
この議論も面白かったけど、今日は別のおはなし。
「私は神様から何もいただいてない。」、「何のとりえもない。」、「そんな能力ないから、私にそんな奉仕はできません。」、「私はクリスチャンにふさわしくありません。」、「私は大したことないです。」云々・・・。
こう思うほど高慢なことはない!!と教えられました。
もちろん、すべての人に平等に能力や才能が与えられてるわけではないですし、すべての人が超優秀、というわけではありません。そんなこと、聖書のどこにも書いてありません。
私の日本語読解力が正常で、聖書解釈が正しければ。
信仰による義と、神様を信じることで与えられる祝福。これについては書かれてあります。
同じく、私の解釈が正しければ。
で、神様は必ずその人を愛し、必ず何かを与えてくださっている。
その人に応じて賜物を与えてくださっている。
それを否定することは高慢ですよ、と教えられました。
むしろ足りなくても、祈りもとめてお捧げするうちに、神様がいろんな形で増し加えてくださるんじゃないかな、と思いました。それは自分自身が変えられることかもしれないし、誰かを通してなされる業かもしれないし。
で、そうして自分自身を否定していたり(それは心のどこかで神様や、イエスの十字架を否定していることにも繋がっているのかもしれない)、自己卑下の状態に陥っている人が、他人のことを顧みるのは不可能だ、とも教えられました。
結局、ピリピも行き着くところは「愛」だと思うのです。「愛」はすべてのことを全うしますから。他人を愛するがゆえに、尊敬することもできる。
冒頭のレビ記の命令は、とても有名な箇所ですね。
ここにも愛が説かれています。このレビ記とピリピはリンクしているように思うのです。
で、そのレビ記なんですが・・・。こうあります。
あなた自身のように愛しなさい。
聖書に書かれてある「他人を愛すること」。
これは、まず自分自身を愛することが大前提になっていると考えて、まず間違いないと思うのです。
自分を愛することができない人は、誰かを愛することはできない。
これは本当だと思います。
まず、私自身の存在を、神様の価値観、聖書的な中で、しっかりと見つめていこうと思います。
自分の内側を見るとき、目を伏せたくなるときは多々あるでしょう。
だって罪人だもん。
でも、心の闇も、ずべて御言葉の光によって照らして頂き、御言葉によって変えられていきたい。
そう思わされた次第でありました。
自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」 (ピリピ2:3~4)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 (レビ記19:18)
毎週守ることが赦されている聖日礼拝。今週の頭も教会に集うことが出来た。
その中で語られたメッセージ。いたるところでグサグサきた(?)。
聖書箇所はピリピから。本当に多くのことを探られ、気付かされ、導かれる内容だった。
いろんな面から分かち合えるけど、今日はひとつだけ。
ピリピ2章を読んで、あーばっちり出来てるわ自分。と思う人はそうはいないと思う。
まぁ、私だけなのかもしれないけど、この御言葉は痛い。なぜ痛いのかというと、なかなか実行に移せないから。まさしく自分のことを言われてるような気がするから。
やっぱり見栄を張ってしまうし、人と比べてはあーだこーだ考えるし。
人と比べて、「私は~~が出来るわ。」とか、「私は~~について知っている。」と思うときほど愚かで無知なときはないと思うし、
逆に人と比べて、「私は~~だからダメなのよー。」と思うときほど、十字架の救いや神様の愛を理解してないときはないんだと思う。そこから目を反らしてる。
人間どうしても自分のことを最優先にしてしまうし、へりくだることはなかなか難しい。難しくしてるのは、頭でっかちなこの性格かもしれないけど。
で、このへりくだるという概念も日本人が考える「へりくだり」と、聖書的な意味での「へりくだり」は全く違うとS牧師はおっしゃってました。いわゆる日本人だと、自己卑下のほうに捉えてしまうんだな。
謙遜と自己卑下は性質が異なる。別物。
この議論も面白かったけど、今日は別のおはなし。
「私は神様から何もいただいてない。」、「何のとりえもない。」、「そんな能力ないから、私にそんな奉仕はできません。」、「私はクリスチャンにふさわしくありません。」、「私は大したことないです。」云々・・・。
こう思うほど高慢なことはない!!と教えられました。
もちろん、すべての人に平等に能力や才能が与えられてるわけではないですし、すべての人が超優秀、というわけではありません。そんなこと、聖書のどこにも書いてありません。
私の日本語読解力が正常で、聖書解釈が正しければ。
信仰による義と、神様を信じることで与えられる祝福。これについては書かれてあります。
同じく、私の解釈が正しければ。
で、神様は必ずその人を愛し、必ず何かを与えてくださっている。
その人に応じて賜物を与えてくださっている。
それを否定することは高慢ですよ、と教えられました。
むしろ足りなくても、祈りもとめてお捧げするうちに、神様がいろんな形で増し加えてくださるんじゃないかな、と思いました。それは自分自身が変えられることかもしれないし、誰かを通してなされる業かもしれないし。
で、そうして自分自身を否定していたり(それは心のどこかで神様や、イエスの十字架を否定していることにも繋がっているのかもしれない)、自己卑下の状態に陥っている人が、他人のことを顧みるのは不可能だ、とも教えられました。
結局、ピリピも行き着くところは「愛」だと思うのです。「愛」はすべてのことを全うしますから。他人を愛するがゆえに、尊敬することもできる。
冒頭のレビ記の命令は、とても有名な箇所ですね。
ここにも愛が説かれています。このレビ記とピリピはリンクしているように思うのです。
で、そのレビ記なんですが・・・。こうあります。
あなた自身のように愛しなさい。
聖書に書かれてある「他人を愛すること」。
これは、まず自分自身を愛することが大前提になっていると考えて、まず間違いないと思うのです。
自分を愛することができない人は、誰かを愛することはできない。
これは本当だと思います。
まず、私自身の存在を、神様の価値観、聖書的な中で、しっかりと見つめていこうと思います。
自分の内側を見るとき、目を伏せたくなるときは多々あるでしょう。
だって罪人だもん。
でも、心の闇も、ずべて御言葉の光によって照らして頂き、御言葉によって変えられていきたい。
そう思わされた次第でありました。
by witlord405
| 2007-12-17 20:38
| 思想