2007年 11月 28日
ひと。 |
痛ましいニュースがある。
人間はなんと愚かなのだろうと思う。
金銭面のトラブル。いつの間にか人はお金の虜となり、大事なことを忘れる。
悲しいことだ。
そしてもっとも悲劇だったのは、純粋無垢な2人の小さな命が奪われたことだ。
残酷な形で・・・。
男は刃物で刺した、という。
最後の瞬間、少女たちの目には何が映っていたんだろう?
確かに人間は罪深い生き物だ、と思う。
聖書に記されている通り、
一人の人によって、すべての人類に罪が入り込んでしまった。
当たり前のことだけど、
人間は不完全な生き物。
完璧な人間はない。
誕生してから死ぬまで、
「悪いことをしたことがない、悪い考えすら抱いたことがない」という人はいない。
私自身、たとえ口や態度に出さずとも、
少しのことで憤ったり、呪ったりする自分を見つける。
心のどこかで、もう一人の自分がいて、
「なんとお前は愚かなのだ」と呟く。
そんな時はキリストの十字架にすがる。
こんな者にも救いがあり、
そして愛されていることを知ると、
喜びが溢れる。
時々、悪魔が囁くことがあるけれども、
そんなのは無視。
御言葉の剣でぶった切ってしまえばいい。
神の愛をただ信じればいい。
信じるからこそ、キリスト者なのだ。
それでも、人との関わりを考える時、
どうにも自分の心が混乱することがある。
繰り返しだけれども、
人間は完全ではない。
だから、ある人間関係において、あるいはある人との関係において、
自分が好ましくないと思うようなことがあっても、
それは悲しいことだけれども、
驚くことじゃないと思う。
心は痛むけど、びっくりすることじゃない。
人間関係とは、
どこにでもありふれ、
もっとも当然な存在だけれども、
一番不確かで、繊細な存在だということに、
いつも気付く。
むしろ、そこにすべての望みを託す方が、
間違ってるのかもしれない、と思う。
どこか醒めてる想いがある。
それは事実かもしれない。
いや、事実だろう。
でもなんか、しっくりしない部分があって、
ずっと引っかかる。
何かあっても、「これが現実さ」と、
心の中で割り切り、
いや、諦めることで悲しむことから逃げ出してるんじゃないか。
「諦める」という大人の、
理屈に偏った防護策ではないのか。
人は完全でなく、
ましてこの世は永遠でないと知りながら、
それでも誰かを愛しいと思ったり、
大切だと思う気持ちがどこかにある。
きっと、人を信じきりたい、という願いが、
心の中にうずくまってる。
諦めなのか、
あるいは
現実を見透かしてるだけなのか。
虚構なのか、
事実なのか。
その問いはグルグルと体を駆け巡る。
何はともあれ、
ここで考えたいのは、
イエス・きりストならどうしたか?ということだ。
この世界を創ったのは、
神ご自身なのだ。
ただ、彼の愛のゆえに生かされることを願う。
楽しむことも、それ単独で存在するのではなく、
神から賜るものなのだから。
そんなこと色々考えて悶々としてたけど、
子供の笑顔を見てたら、どうでもよくなった。
純粋にその場を楽しんで生きてる子供は、
周りの人に力を与えるね。
子供だって嘘をつく。
それでも、子供を愛しいと思い、
未来を託したくなるのは、私だけじゃないと思う。
だから、
むやみに命を奪われた子供のことを考えると、
いたたまれない気持ちになる。
人間はなんと愚かなのだろうと思う。
金銭面のトラブル。いつの間にか人はお金の虜となり、大事なことを忘れる。
悲しいことだ。
そしてもっとも悲劇だったのは、純粋無垢な2人の小さな命が奪われたことだ。
残酷な形で・・・。
男は刃物で刺した、という。
最後の瞬間、少女たちの目には何が映っていたんだろう?
確かに人間は罪深い生き物だ、と思う。
聖書に記されている通り、
一人の人によって、すべての人類に罪が入り込んでしまった。
当たり前のことだけど、
人間は不完全な生き物。
完璧な人間はない。
誕生してから死ぬまで、
「悪いことをしたことがない、悪い考えすら抱いたことがない」という人はいない。
私自身、たとえ口や態度に出さずとも、
少しのことで憤ったり、呪ったりする自分を見つける。
心のどこかで、もう一人の自分がいて、
「なんとお前は愚かなのだ」と呟く。
そんな時はキリストの十字架にすがる。
こんな者にも救いがあり、
そして愛されていることを知ると、
喜びが溢れる。
時々、悪魔が囁くことがあるけれども、
そんなのは無視。
御言葉の剣でぶった切ってしまえばいい。
神の愛をただ信じればいい。
信じるからこそ、キリスト者なのだ。
それでも、人との関わりを考える時、
どうにも自分の心が混乱することがある。
繰り返しだけれども、
人間は完全ではない。
だから、ある人間関係において、あるいはある人との関係において、
自分が好ましくないと思うようなことがあっても、
それは悲しいことだけれども、
驚くことじゃないと思う。
心は痛むけど、びっくりすることじゃない。
人間関係とは、
どこにでもありふれ、
もっとも当然な存在だけれども、
一番不確かで、繊細な存在だということに、
いつも気付く。
むしろ、そこにすべての望みを託す方が、
間違ってるのかもしれない、と思う。
どこか醒めてる想いがある。
それは事実かもしれない。
いや、事実だろう。
でもなんか、しっくりしない部分があって、
ずっと引っかかる。
何かあっても、「これが現実さ」と、
心の中で割り切り、
いや、諦めることで悲しむことから逃げ出してるんじゃないか。
「諦める」という大人の、
理屈に偏った防護策ではないのか。
人は完全でなく、
ましてこの世は永遠でないと知りながら、
それでも誰かを愛しいと思ったり、
大切だと思う気持ちがどこかにある。
きっと、人を信じきりたい、という願いが、
心の中にうずくまってる。
諦めなのか、
あるいは
現実を見透かしてるだけなのか。
虚構なのか、
事実なのか。
その問いはグルグルと体を駆け巡る。
何はともあれ、
ここで考えたいのは、
イエス・きりストならどうしたか?ということだ。
この世界を創ったのは、
神ご自身なのだ。
ただ、彼の愛のゆえに生かされることを願う。
楽しむことも、それ単独で存在するのではなく、
神から賜るものなのだから。
そんなこと色々考えて悶々としてたけど、
子供の笑顔を見てたら、どうでもよくなった。
純粋にその場を楽しんで生きてる子供は、
周りの人に力を与えるね。
子供だって嘘をつく。
それでも、子供を愛しいと思い、
未来を託したくなるのは、私だけじゃないと思う。
だから、
むやみに命を奪われた子供のことを考えると、
いたたまれない気持ちになる。
by witlord405
| 2007-11-28 17:58
| 思想